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大型スーパーの、その駐車場の奥手に、ヒッソリとした佇いのお寺がある。
墓所の傍らに大きな大きな銀杏の木があるのが、唯一、目立つ程度の、小ぶりなお寺さんで、狭い空間に、ザッと、一瞥で見渡せる程に墓があるきりゆえ、その一点のみを考慮すれば、おそらくは檀家数もさほどあるとも思えない。
某日。
某午後。
春の陽射しを浴びながら、その墓所を少しばかり散策する。
元禄の時代にこの寺は建立されたというから、ざっと300年は経っている、いわば古寺である。
T市というささやかな城下町の街中である。
前記の通り、大型スーパーの駐車場の奥手。
その駐車場との境の辺りに、なかなか立派な石塔がある。
パッと見ただけで、傾いているのが判る。
経年で徐々に、ピサの斜塔のように傾いたに違いない。
石柱中央には、ただ「南無阿弥陀仏」と書かれている。
側面に、細かい漢字で、この墓碑のコトが書かれている。
漢文だ。
されど、読めないコトはない。
大意はこうだ。
『廃藩置県の後、T藩元下級家老の何のタレベ〜は、T市の復興と活性がため、遊郭を作り、それはよく賑わった。されど、遊女の中には身寄りのない者も多数あり、病没後の弔いにもコト欠く有り様・・ たまたま、この遊郭の近隣にあったこの寺が、率先し、身寄りなき魂を安置させてくれたから、御霊達もきっと救われたろう・・ そこで、寺への感謝と亡き方々の冥福を祈るがため、この塔を我ら一同にして建立し、永代、弔い続けるであろう』
マ、そのような意味のコトが書かれている。
建立は昭和のはじめ。
建立者の名義は『遊郭共同組合』とある。
その筆頭名義の後に何人かの建立当事者の名が並び、最後に、それらより一筆大きく、「仲居一同」ともある。
T市は、鉄路が引かれるまでは、T市を二分するカタチでゆったり流れている吉井川が主な行路だった。
船、が交易の中央にあった。
船、といっても、小さなボート程度のものだけど、それでも、それに携わる人は多くあったろうし、実際、今も、船頭町という町名が残ってもいる。
遊郭は川に沿うように作られ、おそらく夜な夜な、大きなにぎわいがあったと思われる。
無論、それは江戸の時代からあったのだろうけれど、社交場として、職場として、カタチの輪郭が整い出すのは、江戸時代が終わってからだ。
墓碑も、明治時代の、いわば再開発者としての功労者の名をまずはあげている。
建立者たる「遊郭共同組合」なるが、どのような組織であったかは判らないけれど、遊郭が廃止されるのは、昭和30年の頃だから、明治から昭和30年までのおよそ100年・・ 名もなく、おそらくは収入もさほどもないまま病没した遊女が、かなりの数あったというコトは、いえるのではなかろうか・・
それが悲壮なのか壮烈なのかも茫漠として私には判らないけれど・・ 今、駐車場と化し、ミラやらソアラやらカローラやらベンツやらシビックやらがひっきりなしと出入りしている、この同じ場所の、過去の、その景観を少し思わずにはいられない。
既に、「遊郭共同組合」は、ない。
ゆえに、永代弔われるコトなく、墓碑は褪せ、傾き、無論、花も線香も誰も捧げない・・・
朽ちるままに風と共に、ただあるきりだ。
されど、こうして、半ばの部外たる私のような者が足をとめ、フッと碑文を読んで小さな感銘を受けるというコトは、この墓碑が立っている内には、少しではあろうけど、今後も、あるには違いない。
個別の、彼女達の顔はさだかではないし、どれほどの人員がその墓碑の中に眠っているのかもしらないけれど、彼女らにも一時(いっとき)な笑みがあったろうコトは想像できる。
船頭さんら無数の男の声。
無数の女の声。
畳。
襖。
川面のきらめき。
酒。
肴。
唄。
嬌声。
吐息。
あえぎ。
紙幣。
硬貨。
ちり紙。
裸電球。
喜。
怒。
哀。
楽。
性。
生。
死。
春の風を頬に感じながら、私は思いを過去に、ちょっと巡らせた。
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