形と色の四方山話
 部屋に2本、ビデオテープがある。
 「The Jetson」
 邦題は「宇宙家族ジェトソン」
 最近、このカートゥーン(アニメとはいわない(^.^))を繰り返し眺めている。
 さほどのワケはない。
 さほどに面白いモノでもない。
 60年代前半の一典型としての家族が「未来社会」を舞台に描かれているに過ぎない。
 このUSA製の番組は私が小学生の頃の作品である。
 あまり好きなカートゥーンではなかった。
 カリカチュアされた絵が子供の私にはあまりにアッサリしたものに見えて好ましいと思うに至らなかった・・ のだけれど、今は多少に違う感想があり、これを見るコトができる。チビッと眼が肥えたか、視線にユトリが出来たか、ただの衰退か?
 屈託のない明るい未来の微笑ましさに、しばし、時を忘れるようなトコロがある。
 アッケカランとした明るさの牧歌に北叟笑むようなトコロもある。
 既に古い概念と未だ輝くような部分との差異もおかしい。
 だが総じてこの番組を今見ている理由は、登場する個々のモノのカタチに魅かれているトコロ大である。
 テレビ・椅子・机・飛行車・自動調理器などなど・・ 徹底して戯画として描かれたそれらモノ達の本質の抽出具合が極めて良好であるとは思えないけれど、その描き方に少し眼を見晴らさせられるようなトコロが大である。
 そして、そんなモノに囲まれた中での平凡な生活という一点も、ちょっと、眺めるトコロあり。
 我が日常とはかけ離れた記号的なモロモロを眺める愉悦、といったトコロであろうか。
 当時の我が家には白黒TVしかなかったから、もちろん、記憶にあるこの番組はグレーモードの画像として私の脳裏に定着している。
 今はカラーの画像として番組を見る。
 多くの色が氾濫するような番組ではない。赤、青、黄、紫、黒、白・・  原色に近い色調はカリカチュアされた絵柄と相まって、硬質なきびきびしたような確固さが滲む。省略されきった線がダイナミックである。
 50年代末から60年代初頭におけるアメリカのインダストリアル・デザインの多くは、基本モチーフとして流線形を用いている。
 人工衛星の時代である。宇宙への夢を飛翔させつつある時代である。
 なめらかなロケットの銀色のボディを想起させるようなデザインが、例えば、車のテールとか、キッチンの椅子に施される・・
 全土(アメリカの)に隈無く張り巡らされる高速道路網の、とりわけ、インターチェンジの楕円の複層の構築の優雅と機能性に、栄えある未来が去来したかのようなイメージのあった時代である。
 素材の革命期でもある。
 プラスチックとFRPの黎明期だ。
 木と布と鉄でしか構築出来なかった、例えば、椅子のようなモノが、プラスチックが加わったコトで、手作りの木工芸に等しかったモノから工場での量産品という形態へと変容し始めた。
 白、黒、赤、黄、緑・・ プラスチックの成形色の艶やかさに、当時の人は一様に眼をはったこったろうネ。しかも価格は安い。
 大量に製造される物品があふれ出し、量産される製品の色彩のままに、感覚として未来は明るい・・ 暗鬱なベトナム戦争はまだもう少し先だ。
「The Jetson」はそんな時代を反映したカートゥーンだ。一つの時代の流行の潮流にのっかったアイデアとデザインで埋め尽くされている。
 アップル・コンピューターの一連のデザインを担当するロンドン生まれのジョナサン・アイブ氏も、おそらくは「The Jetson」は見ていたと思われる。
 彼のデザインとそれを容認するiCEOのS・ジョブス氏の嗜好には、この50〜60年代のデザインの潮流の反映があるとも思われる。
 ツートーン・カラーの鮮烈さは実にあの時代の特色でもあり、素材のカラフルさという点もこの時代に起因する。
 
 インスピレーションの元となるネタは、案外、この辺りにあるのかもしれない・・ もちろん、彼らのデザインがそんな単純な部分でもって起こされているワケでは断じてない。
 カタチを送出するにあたっては煮えた湯に何度もくぐらせるような難儀な調理あってのコトだと思われる。彼らは一つのカタチをただ単に創案しようとしたのではない。新たな『言語』を作り上げるコトに精力をつかっている。
 その『言語』として身を結んだのが、例えば、iMacであろう。
 アップルから訴えられたソーテックが「どこをどのように真似ているとされているのかわからない」とコメントを出しているけれど、憐れな程に卑小である。
 『言語』としてのデザインを考慮せず、その表層のカタチだけを真似た挙げ句の、この発言の卑屈さが残念だ。真似たコトを認めるか認めないかでなく、創案された『言語』に対しての敬意のなさに失望する。
 アップルは自社製品を売っていくためとはいえ、まったく新たな『コトバ』を作ったのだ。
 結果としてそれは成功し、ウインドウズ陣営の羨望となったワケだけれども、その『コトバ』としてのデザインを少しでも理解すれば、あのような格好、あのような配色のコンピューターにはならなかったと思うのだ。
 e-oneを買った私の親近がそんな発言をしているのだから、これはマチガイない(^0^)
 ソーテックのe-oneは、価格、スペック共々にとても魅力的なマシンである。
 そのせっかくの魅力をiMacっぽいカタチに似せて、「パソコンはこうでなくっちゃ」と平然と謳いあげるセンスもポリシーもない経営者と、それをバックアップしているらしきマイクロソフト・ジャパンとインテル・ジャパンの経営陣の愚鈍さに、失笑させられるのだ。
 アップルはその『言語』でもって新たなスタイルというか生活の様式というのか、ライフスタイルそのものへの干渉を意図的に行なおうとチャレンジしつつある。G3のかのブルー&ホワイトがアナタのオフィスやら部屋に似合わないのなら、いっそオフィスを、部屋を、変革してみたらどうでしょう・・ と、提案しつつある。
 この試みはある部分では成功したかに見える。おびただしいトランスルーセントやらスケルトンタイプの小物がアチャコチャにあふれ出しているのは周知の通りだ。しかし、オフィスそのものを、部屋そのものを、といった所にまでは至ってはいないようでもある。
 G3にマッチングするだけの部屋そのもの、オフィスそのもの、が作られた事例をあまり聞かない。
 G3に関しては主張が強すぎるデザインという意見がある。それはたぶん、部分においては正しいけれども、総体としての捉え方はやはり違うのだ…… その主張を受け入れる程の容量がコチラ側にないというに過ぎないのだ。
 デザインというものは、陳腐化しやすくあり、劣化しやすくもあり、生鮮物のように鮮度が落ちやすい傾向と性質を含有しているがゆえに、たえず新規なものを要求されるという宿痾をもっているようである。
 迎えられ、飽きられ、忘れられ、その内にまた幾年も経って後にまた新規として迎えられる・・ といった傾向もあるようである。
 流行りのサイクルというものもあろう。
 「The Jetson」に見られる時代がなしたデザインとアップル社製品のデザインの根底にある類似、あるいは折衷は、このサイクルの一環であろうか。50〜60年代前期の、明日に希望が持てた時代の「未来形デザイン」を一種の様式として下敷きに加味しつつ明日を摸索しようとする尖鋭がアップルのデザインだと思われる。
 50〜60年代のモータリゼーションの時代にあってFORDはそのリーダーの風格と威容でもって次々に「来たるべき明日の車」のカタチを摸索し発表し続けた。
 多くは量産されるコトのないイメージ・サンプルとして作られたものではあったけれど、その果敢な提案には、確かに今の眼で見ても鮮烈な「夢」が詰まっているようである。
 かつてのFORDがそうであったように、今、アップル社は時代の尖鋭な部分での「夢」を紡いでいるように思われる。デザインとは何かという苛烈で険しい高山に前向きに挑んでいるようである。
 アールデコやロシア・アバンギャルドの時代を経て、米国で最初の職業としてのデザイナーが育っていくのは、1939年にNEW YORK WORLD'S FAIRが開催された時期であろうか。
 あの高々と屹立した円錐と巨大な球のモニュメントに象徴されるデザインのパワーは、R・ローウィらが提唱した流線型のデザイン・アートへと結実する。
 モノのカタチをただ考案するというのではなく、より総合的な意味合いを持ったデザインの提案である。
 第二次大戦でこのデザインの系譜はいったん途切れはするけれど、戦後のモダニズムの台頭、そして、良くも悪くもアトミックの時代を迎えてのデザインの流れ(流線型の発展とアトミック・デザインの融合)は、主張としての"生活スタイル"が大きく意識されていた。
 多くのデザイナーは当然ながら一企業に属し、その社の製品のデザインを行うという、いわば売れなきゃどうしようもない世界に居つつも、全般としてのデザインにまで思いを馳せて、そこに生じるであろう、新しい、あるいはより理想的な生活スタイルの摸索を行なっていた。
 今のアップルがやっているコトは、まぁ、そういう事だ。
 要約として単純に言ってしまえば、アップルにあってソーテックにないのは、『明日への提案』である。あるいは、それへの努力である。変えて見ようとするチカラである。
 模倣はた易い。
「The Jetson」を微笑ましく見つつ、そんなコトを思った次第だ。