奢侈淫佚
 時に強く、モノから逃れたいと思うコトがある。
 本。
 おもちゃ。
 雑多な書類。
 ビデオ、LD、MD・・ とりわけビデオテープ。
 コンピュータ、モニター、その周辺機器。
 オーディオ機器。
 大、中、小、丸いもの、角いもの、軽いもの、重いもの・・
 あれこれ部屋中・・ 横に並び、縦につまれ、十重八重にモノがあふれている。
 モノに侵食されていると感じ、息苦しいような思いを味わうコトがある。
 否。思うだけでなく、実際に息苦しい。
 日常は文字通りに日常に流されているからソレと気づかぬものの、時に何かに神経がそよぎ、鋭敏かつ過敏になったおりに、フイに部屋の中のモノ共が一斉にこちらに向けて声あげて近寄ってくる。
 そんなコトが、ある。
 本もオモチャもテープも、一斉に叫喚めいた雄叫びを上げて我が方に擦り寄ってくる。
 夜であれ昼であれ、それはいきなりの蜂起として立ち現れる。

 例えば、コンピュータ本体とそれに連なる木製の棚の上に、一種の私自身のブームとして
クリア・オレンジの種々雑多な小物を並べ飾っているのだが・・ この十種類程のオレンジ色な固形物が何かせめぎ合うようにして私を苛(さいな)みにかかるのだ。
 詩的に言うのでなく、実際に、投げて捨ててやろうかと思う程の勢いで持って私に云いがたい重圧を加えてくるのである。
 個々のモノモノに耳をすませ眼をはっても各々は寡黙沈静にして穏やかな静物以外の何者でもないのに、単数が複数、複数が大量になった途端に、何やら落ち着かない匂いをたててせめぎ寄ってくる・・
 微小なモノ、極大なモノ、一切が有形な集合体と化して、迫り寄る壁のような圧迫の重圧をハッキリと感じさせて躙りよってくる。


 表題は「
しゃしいんいつ」と読む。
 先夜、国語辞書をめくっている内に出てきた四字熟語である。
 淫、という漢字に、ひょっとしてヤ〜〜ラシイことが書いてあるんかいなァ、と思って、シゲシゲ読み込むと、なるほど、ヤ〜ラシイことに相違はないけれど、思ってたコトとは違ってた。
 奢侈淫佚。
 意味は、
「必要の程度や立場をこえた贅沢をし、不道徳で節度のない行いをすること」
 とある・・・・・・・・・
 アラアラアラ。
 まるで、私を云うてるみたいで、いささか面食らった。
 昨今まずは滅多と出くわさない熟語というか、私をしてお初にお目にかかる四字ながら、意味するトコロは昨今むしろ切実痛切に思い当たるという感触である。

 
奢侈(しゃし)と書いて、「物量が多いコト」をいうのだそうな。
 辞書によれば、この場合、
は「ひたる、おぼれる、度が過ぎる」の意で、は「愉しむ、なまける、しまりがない」というコトだそうである。
 なるほど、四つのその意味で四文字を並べれば、自ずと大意は判ってくる・・
 モノに溺れちゃった節操なき生活、といったニュアンスが滲んでくる。

 その昔、大阪にての万国博覧会で、「白い部屋」を見た。
 当時気鋭のデザイナーだった横尾忠則がデザインした部屋で、何から何までいっさいが白のみという空間だった。
 壁、天井、床、カーテン、ドア、机、椅子、ベッド、人・・ 全てが白一色に塗られ、個々のモノが輪郭だけのカタチとなってそこに置かれていた。
 その室内に入ると、廻りが無限に拡大していくようでもあり、逆に無限に迫り寄ってくるようでもあり、モノ固有の色というものの不思議を少し味わいしらされた。
 モノモノが白一色ゆえ、質量が消え、それぞれが意味するトコロの何者かが消去されているようで、何もないような、そのくせ、やはり、あるような、部屋全体が曖昧な領域の何者かに変じたようで、いささかに不思議であった。
 ただ、あまりにまばゆく、不自然ゆえ、そこに実際に住まうコトは出来ないナと薄々思ってもいた。

 茶室というものがある。
 たいがい狭い空間だけど、その部屋や庵には茶の道具以外は何もない。
 岡山県の和気郡というトコロに閑谷学校というのがある。
 江戸の時代に創設された学校で、本堂は今は国宝になっている。
 この閑谷学校そばの渓流添いの山道を少し登っていくと、廃屋と見紛う小さな庵がある。 畳一枚か二枚ほどの大きさしかない一室に屋根がかけられているだけという按配。 木戸というか障子というか、入口と思われるそれは背を屈めないと出入りもできまい。経年ゆえ屋根にはコケが生えている。
 学校を創設した池田なにがしが建て、実際、ここで茶に親しんだという。
 庵は 渓流の上に結ばれていて、周辺はクヌギやモミジやトチノキといった樹木に覆われて深閑とし、聞こえるのは足下の水の流れと鳥の声のみ。
 いってみりゃ、何もない。
 その何ぁ〜んにもない空間を、モノに疲れた時に、フッと思い出すというのが最近の私の常である。茶に親しむとか茶をたしなむというコトでなく、その小さな何もない庵に魅力を覚えている。
 ぁあ、イイナァと思っている。
 何もないのがイイナァと大マジで思っている。
 モノからの逃避の手立てとしてそのように思っている気配濃厚だし、茶の心も作法も知りはしないけれど、フッと、そんな空間に憧れに近い興味をおぼえる。
 茶器以外に何も置かない茶室の狭く小さな空間は、文章の句読点以上の意味を持った仕切りとしての空間じゃないかしら、とも感じ、 庵が意味するトコロの真意や深意や心意が薄く判るような気がしてくる。
 それは一種の牢ではなかろうか、と考えているのだ。
 外界を遮断し、自己との対座を目的にある空間だ。
 座し、眼を閉じ、時に戒め、時に安らぎ、そうするコトで部屋はいっそうに狭くもなろうし、また時に眼を閉じたれば広大な宇宙にと部屋は拡大膨張するような・・ 庵は、心の動きを反映させる観念の牢だ。
 奢侈淫佚たる我が身にハタと気づき、モノに溺れたと意識した途端、とりわけ痛切に、そんな牢を思っちゃうのだ。
 狭く閉じてはいるが身をそこに溶け込ませれば、狭い部屋の壁も天上も茶器すらもモノとして有効でなく、モノは失せて、そこは渓流でもあり大河でもあり広野でもありうるような場となるのではないか・・ 時に、そのような空間に身を置いたなら、解毒の効果なり中和なりが多少なりともアルんではなかろうか、と思っている次第なのだ。

 津山の二宮というトコロに高野神社という名の神社がある。
 小学生の時、そこの本殿脇にある小さなお社に勝手に入り込んだコトがある。
 なにしろ小さな学童ゆえ、神もホトケもあったもんじゃない。隠れ家気分でそんなトコロに入り込んだと思いね〜。
 内から格子戸を閉めると妙なホドに寂しい感触のある、板で床敷きされただけの、狭い、何もない「部屋」だった。床には乾いた米が少し落ちていて、それが弱い秋の日差しを受けてキララと宝石のように輝くのを、しばらく私はうずくまって眺めていたけれど、こうしてありありとその光景を思いだせる程に、「部屋」は静かで、何もなく、匂いもなかった。動きとしては、格子戸から入った木漏れ日が板床に映じ、格子の四角い影が濃くなったり薄くなったりするきりだった。
 米粒やその影を眺める内、私は膝小僧を抱えたままそこでウトウトと眠ってしまった・・
 今にして気づけば、それこそが一切から切り離された庵のような空間だったと承知させられるワケだけど・・ その「部屋」で少時を過した記憶は不思議なホドに幸福な色合いに滲んでいる。
 身辺に何もないコトが逆に、小さな少年であった私にも、何かを寄与したというコトなのだろうか。

 ともあれ、モノで幸福になる時もあれば、モノで押し潰されそうになるコトもある。
 今回は、まぁ、その後者のお話。モノの量と距離についての戯言だ。  (^0^)
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