地球に静かな朝が来る

 例えば、地球に静かな朝が来た、という表現は・・ 通常としてコレはおかしい。
 太陽を中心に廻っているのが地球だから、原則として地球はたえず24時間、太陽に晒されているワケで、地球そのものに朝がいっせいに来たコトは過去一度もない。
 自転しているから朝が来る。夜となる。
 地上に静かな朝、となればコレは判る。

 先夜、二日酔い状態で眠ったおり、ミョ〜な夢をみた。
 細部はもうおぼろで、ここに書き出せないけど、とにかく、とっても平坦な空間に自分が住んでいて、自分はその「地球」の中学校の先生で、教壇に立って生徒に、
「地球の厚みは2ミリか3ミリです」
 なんて、教えてる。
 で、ここでは全地上的にいっせいに朝がくる。
 だから、地球に静かな朝が来た、という表現は、正しい。
 正しいのではあるけれど、なんだか生徒も私も、どうも変じゃないかというコトで紛糾しているのである。
「電灯みたいにパッと太陽が出るんでそうなるんだ」
 と私は相当に自信がないのだけど、他に説明が出来ないので、そのように生徒にいったのだけど、生徒は当然納得しないのである。
 この生徒というのが、よく見ると、子供ではなくって、私の知友であったり、親戚の叔父だとか、イトコがいたりして、私のコトを先生と呼んだりヨッチャンと呼んだりもして、混乱に拍車がかかって大変なのである。
 ともかく教室の中にいては判らん、外に出てみよう、外に出て実地で議論しようというコトになってゾロゾロと外へ出ると、丘のようなトコロで、皆んなは弁当をひろげたり、既に喰っている奴もいて、
「ビールの用意を忘れるんではないのか」
 と私にいっせいに申し立てるのである。
 面白いコトに、私にはこれが夢なんだなと判っている。
 全面的にそうだという次第でなく、薄々、コレは夢をみているんだなと判っているような自分がいる。
 だから、夢の中に、二つの自分がある。
 身一つながら二つの自分が、かたや夢の中の住民として振るまいつつ、かたや一方はその様子を嬉々と眺めているといった気配が濃厚なのである。
 で、一方の自分(これが夢と自覚してる方)が、話を最初に戻して、なぜいっせいに朝が来るかをもっと議論しようじゃないかと思ってるのに、もう一方の自分は教室に戻ってビールを捜すのである。
 教室というより、神社の社(やしろ)の中である。
 ホコリっぽい板張りの白けた空間で、隅っこに隠し戸があるコトを夢をみてる私は知っていて、それは講堂につながっていると判っている。
 ビールはない。
 賽銭箱のような、上部がスリット構造になった木箱があるのだけど、錆びた錠前がかかっていて開けるコトは出来ない。
 その中にもビールがないコトは判っている。中には米が入っているハズ。けれど、その米は濡れていると、夢みている私は確信的にそう思っている。
 その箱のスミッコに登って立ち、そこから部屋の角の隠し戸へ飛び降りると、「階上」にある講堂に一気に行けるという確信めいた感じが、ある。
 講堂へ行ってみようかと迷う自分と、それは後の楽しみにとっておこうという自分とが、ある。
 濡れている米を見てみたいという気分もある。
 講堂の一画に自転車屋があり、今日、そこへ行くと頼んでいた新しい自転車があるコトが判っているのだが、持ち合わせのお金がないのである。
 そこに知人が1人やってきて、
「自転車を今日持って返るんでしょ?」
 私に聞くのだ。

 この辺りで私は目覚めた。
 朝はまだ来ていない時刻なのだろう・・ カーテンの向こうは暗く、物音はない。
安堵めいた、もうちょっと眠れるなという期待でなにやら嬉しくもあり、それから、今の夢の中の「いっせいに来る朝」というヤツを少し思い返した。
 朝がいっせいならば夜もいっせいに来るな・・ とそんなシーンを空想しつつ、また私は、いつのまにか眠ってしまった。

______ 閑話休題

 ビデオを観た。
 R・アッテンボローの「ガンジー」。
 米軍のタリバンへの攻撃がはじまった翌々日に観た。
 たまたまそうなってしまったのではあるけれど、ともあれ再見し、つくづくと、厄介なモンやなぁとうなだれた。
 あらためて、「ガンジー」を観ると、ガンジーはとてつもなく巨大であった。
 戦いを恐れての無抵抗ではなかった。
 争いを回避したいがための無抵抗ではなかった。
 こと暴力に対し、それを振る舞うコトのみを徹底的に避け、ひたすらに激しく闘ったのがガンジーであった。
 非暴力の範疇で徹底的に相手を挑発し行動し続けた。
 脅された。
 殴られた。
 投獄され続けた。
 が、それでも毅然と抵抗し続けた。
 そこに強靱な魂のデカサがあった。
 脅され、殴られ、地べたに叩きつけられるたび、彼が苦痛にのたうつたび、結果として、暴力をふるまう側がその威勢と尊厳を失うコトの意義を身をもって実践しきった・・。
 力で制圧しようとする者に対し、この抵抗は、時間のかかる闘争である。
 が、闘争が彼個人のモノから3億5千万人(当時)の全インド人に見事に伝搬した途端、様相は急速にかわった。
 ガンジーは宗教家ではない。闘争そのものを回避した人でもない。
 ただその手法において彼は人を殴る手段だけはつかわなかった。
 殴りたければ殴れ、殺したければ殺せ、されど、我が心、我が魂を手にいれるコトは出来ないぞ、との強い覚悟を持って闘った人だった。

 白状するけど、米軍の報復攻撃をどう自身でとらえるか、実は苦慮している。
 いや、たぶん、多くの皆さんがそうではないのかしら・・?
 今回のテロに心底煮えるような思いにかられ、徹底的にやっつける以外に手立てなしとも思ったハズだ。
既に話し合いといったレベルを越えているというコトも事実だ。
 野放すワケにはいなかい事態である。
 処罰せねばならないと、半ば断固たる気分でそう思ったハズだ。
 が、その手法は・・ 容易であってはやはり駄目だ。
 信長は抵抗勢力としての比叡山を、徹底した非情でもって殲滅させた。
 女性も子供も全て殺した。
 そこまでせねば、その子らがいずれは抵抗するというコトを承知していたからだ。いわば一派に含まれる一切を根絶やすコトで信長は一つの川を渡りきった。
 むろん、米国はそんな気分で空爆を続行しているワケはない。
 ただただ、テロルの首謀者らとそれを匿う勢力を攻撃をしているに過ぎない。
 けれど、やはり、巻き添えを喰って落命する者が多数でる・・・・。
 その死には大義がない。
 不幸なN.Yのあのビルにいた方々同様に。
 そうすると、やはり、誰でも判るコトながら、それは報復の報復といった連鎖の道を断つものでないコトが諒解できる。
 憎しみが憎しみを生ませて尽きるコトがない。
 それを本当は誰もが求めたり願ってはいないハズなのに。

 ガンジーのように私は強くない。
 激しく闘うが決して暴力には訴えないという、その強さを持っていないし、おおいなる策略もない・・ 殴られた、だからカッとして速効で殴り返した、というのが今の私の現状であろう。
 でも、映画「ガンジー」には教わるコトが大であった。
 ガンジーもまた狂信的原理主義者の手で殺害されはしたけれど、その精神が訴えたトコロの真理は死滅していないと思われる。
 ともすれば私どもは、昨日今日の時代のスピードに埋もれてしまいがちだけど・・ ガンジーという強靱な精神の持ち主がほんの50年程前まで生存していたコトは覚えていた方がいい。
 彗星のように光芒し、大いなる運動とまで成したコトはしっかりと刻んでいた方がいい。
 ガンジーとても、英国からの独立を勝ちえたとはいえインド・パキスタンの分裂を回避出来なかった。その裂けた不和不協を修復せんと悶がいているさなかの暗殺だった・・
 ガンジーが得たものと失ったもの・・ そこに思いを馳せると、彼の思惑とは裏腹に、周辺内外に横たわった相互理解の決定的欠落に否応もなく晒されるコトとなる。
 云うはたやすいけれど、容易に隣人を愛せないのがおそらくは人間なんだろう・・。
 
 平和を愛しましょう。
 武器にさらばしましょう。
 と、そんな牧歌をたれて駅前を行進したりする気分は私にない。
 じゃ、どうすればイイ・・ という辺りで悩みは沈潜するのである。
 おそらくは、真に希求されるのは、大慌てで法を捻出するといった対策ではなく・・ より大いなる政策なのだとも思う。宗教・思想の相違に関係なく、損得に左右されず、赤信号では停まり青信号で進めるという、基礎の基礎たる根源のルールなくば、いつまでたってもこの大地に静かな朝は来やしないと思う。
 むろん、きっと、そんなコタァ、誰もが判っている事なんだろう・・ かゆい背に指が届かないような、出来そうで出来ないコトのもどかしさに悶々としているのだとも、思う。素晴らしい夢をみたけれど、目覚めた途端に輪郭がおぼろとなってヤヤ焦れったい気分を味わい知らされるみたいな、中途半端で茫漠とした気分。
 そんな気分がモヤみたいに蔓延してるのが最近だ。
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