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神楽坂がどういうワケか好きである。
数年前、睫毛のながい麗華な美女にこの小路を案内いただいて以来、ずっと、周辺にくるたび立ちよっては、もちろんそれは陽が暮れてからのコトなのだけど、坂を登り坂を下りして、路地の左右、点在する居酒屋のドアを開けてみるという慣習になっちゃってるのである。
私はブラリ訪問な一元客ではあるけれど、どの店も良質でハズレがない。
狭いかしらと思ってドアをくぐるとウナギの寝床さながらの奥行きある空間に導かれ、おやおやと新鮮な衝撃をおぼえたりさせられる。
どうかしらネと思いつつオーダーした角煮が、大きく、柔らかで、滋味深くって、ぁああ、と溜息をついたりさせられる。
予想に反して狭かったけれど、掘りごたつ式なテーブルで、案外と落ち着くという店もある。
気心しれた友らと飲み、語らうにつれ杯重ね、ブランコなワイン瓶が2本あき、では、次なる店で今度は焼酎の湯割りという按配と化し、気づくともう深夜の2時前であったという感触も、好きである。
ジョージ・ハリソンが亡くなった日、奇しくも、その大の親友たるクラプトンは私の好きな空間である神楽坂に近い武道館でコンサートを演っている。
その武道館の中に私はい、音を身体で感受して共鳴し、余韻にひたるまま、飯田橋の駅を越し、また神楽坂に行く。
親友の逝去ゆえクラプトンは公演を中止して帰国するのではないかと噂されていたけれど、情緒的見解をよそにクラプトンはキチリとコンサートをやってのけた。
それも、前回の時より、さらには、その前のやはり武道館でのコンサート時よりも熱の入れ方が一段高かったようにも思える。
曲への集中とアドリブのパワーが、過去数回の、この武道館でみた彼のそれと比し、数段、昂ぶりがあるよう見受けられもする。
そのコトを、神楽坂のとある地階の店にて、体感共有した友らと語らうのは、これは愉悦といっていい。 最大の友を失った日、ワールドツアーの一環として遠い日本にて、多数を前に謳わねばならぬクラプトンの、その心境を憶測するもまた愉悦なのである。
クラプトンにダンコ生じていたであろうハズの痛みを酒の肴として、私は神楽坂の某所で沈潜する。
その沈潜を愉悦と感受する・・。
こたびのコンサートのアンコール曲の最後は、OVER THE RAINBOWであった。
1939年のMGMの名作「 オズの魔法使い」の、かのジュディ・ガーランドの「虹をこえて」である。
ふいにこれを生ギターで歌いだされた刹那には、正直なトコロ、戦慄をおぼえた。
喜色ではなく、衝撃めいた鳥膚立つような戦慄をおぼえさせられた。
虹の向こう 空のどこかに
子守り歌で聞いた国がある
虹の向こう そこは いつも青い空
そこでは どんな夢も叶う
星に願いをかけ 眼がさめたら 雲の上の国
心配ごとはドロップのように溶け 気がついたら煙突の上
そんなコトに ならないかな・・
虹の向こう そこには青い鳥が飛ぶ
鳥が虹を渡れるなら 私だって渡れるはず
青い小鳥が行けるなら 私だって行けるはず
日本語で内容を記するに、そういうコトとなる。
このツアーでは、必ずこれをクラプトンは唄っているようである。
年齢を嵩むにクラプトンはギタリストとしてのそれに加算させ、ボーカリストとしての技量と魅了がいや増しに増加しつつあるのだけれども、この11月30日の「虹をこえて」は、その技量をフル動員させた名演中の名演名唱であったと、いっていい。
ましてや、この歌詞内容である。
そこにクラプトンの、親友への気分を托していたといってしまうのは、あまりに短絡な勘繰り過ぎであろうか・・。
この夜の1ステージで、クラプトンはかなり消耗したよう見受けられる。
同行の我が友をして、「ステージから下りる時、フラフラしてたぜ」とのコトである。
私はステージ上の他に眼をとられていたからクラプトンの足元のおぼつかなさに気づかなかったけれど、この夜、エリック・クラプトンがいつものステージではない気分としてそこに立ち、弾き、唄い、燃焼したであろうコトは予想でなく、ダンコ、そうであったと確信しているのである・・。
その最後の曲としての「虹の彼方」である。
友の死に際して公演を中止して駆けつけるではなく、プロのミュージシャンとして、そのWORKを全うさせるコトが何より友・ハリソンへのためと・・・ 彼は唄う。もはや、その歌詞にある願いではなく、かなわぬコトとなった追憶として・・ 唄う。
浪花節っぽいか、これは?
日本的なウエットな感性での見方か、これは?
あるいは・・
いや、そうでなく・・
いや、ダンコ・・
いつかの昔日、ブライアン・フェリーがジョン・レノンへの追悼として、レノンの「ジェラス・ガイ」を唄い、以後、それを重要な、ある意味でレノンのそれを凌駕するホドに天晴れなレパートリーとしたように・・ この曲はやがてクラプトンの内なる部分で、より高く、より深く、より広く、昇華するのではないかしら・・・。
そんな次第を、私は友と3人、神楽坂で語り、グラスを傾け、グラスを干し、また同じものを、この場合は梅が沈んだ炭酸割りの麦焼酎なれど、オーダーしてはくり返しくり返し・・ 自分の中の波のような昂悦と、愉悦のその根底にあるまったく相反する気分としてのハリソンの死を、うっちゃっている。
クラプトンに良き友があったように、私にも少ないながら良き友がある。
そのコトを泌みるホドに嬉しく思う。
その友を亡くした男の悲痛を思う。
で、また、グラスを干す。
逝った人に思いを馳せる。 |
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