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日本にはボランティアに相応する語がない。互助や奉仕はあるけれど、ボランティアを意味する語彙は存在しない。
ゆえに、我が国にはボランティアとそれに相応した精神がなかった……
といった記述を、何かのボランティア団体の方が新聞に寄せていたコトがあるのだけど、どうも、そうではなかったようである。
それはマチガイですよ、と申さねばならない時代が過去、ここにはあったようである。
江戸時代。
この長い鎖国の時代、実は、この国はボランティアとしかいいようもない形の精神と実質の生活に満ちた国であったようなのだ・・
語彙としてのボランティアがないのは、ボランティアがないからではなく、コトバとして作る必要がないホドにそれがごくごく日常のあったまりまえのコトであったがゆえにという次第のようなのだ。
江戸時代に関する本を何冊か読んでの、これは結論である。
あの時代に関するニワカ知識だけがゆえに易々と結論を出しちゃうのは危なっかしいけれど、どうも、今まで思い決めていた江戸時代と、ホンマの江戸時代というのは、かなりの差異があるというのが感想である。
お馴染みの士農工商の四字や、封建制度、年貢、圧政、百姓一揆、ツジ斬り、などなど何かと江戸の時代というのは暗くてヤッカイなもんだったという風に決め込んでいたワケなのだが・・ アレコレと実情を書いた本を読んでみると、ちょっとビックリするくらいに、なんだか良性のものが多かった時代だったような感触なのである。
むろん、車もクーラーも冷蔵庫も電話もない時代だから利便という点においては、今とは比較しようもない不憫ではあったのだけど、社会全般を俯瞰してみると、逆に、今がとっても変ですぜと疑いたくなるホドに江戸時代が成熟したもんだったコトが判ってきた・・
まず、総じていってしまうと、お金が最上の価値基準として君臨して、意識構造もその影響下にあるというのが今の時代なのだけど、江戸時代には、どうも、そうではなかったという一点がある。
むろん、お金を稼いだりお金に苦労したりは今も江戸も変わりはないのだけど、お金が全てではないという意識がシッカリあったのは江戸時代の方々である。
「泉光院旅日記」という本がある。
文化九年(1812)から足かけ6年に渡り宮崎県から秋田までを旅した山伏の記録である。
泉光院というその山伏が旅しつつ記録した日記が「泉光院旅日記」として、今は講談社文庫になっていて、そこいらの書店で簡単に手にはいる。
で。
これを読んだワケだ。
泉光院さんは今の宮崎県佐土原町という所にあった安宮寺の住職で、修験として托鉢しながら全国を歩いた次第なのだ。
一緒に歩くのは平四郎という荷をかつぐ人。
よそ様の宅前で経文を読んだりお札配ったりで幾許かのお金やお米の喜捨を受けるだけ。泉光院はかなり身分の高い山伏ではあったけれど、托鉢は乞食旅行というか一種の無銭旅行だし、だいたい、泉光院なんて誰も知りはしない。
ホコリまみれの托鉢の人でもあるし、夜、眠るには橋やら家屋の軒下をさぞや利用したに違いないと思いたいトコロだが・・
ところが、その6年の長旅で、泉光院さんはただの一度も野宿していないのだ。
大きな町、小さな村、寒村、離村・・ どこでも、誰かが、貧富関係なく、泉光院さんを泊めてくれているのだ。
宿泊代を出せとはいわない。
タダで、食事も出してくれる・・・
皆なが皆なもろ手を上げて歓迎ではないにしろ、さて、今夜はいよいよ泊まる所がないぞと途方にくれていると、必ず、誰かが、「うちでよかったら泊まりなせぇ」と声をかけてくれる・・・ 地域に関係なく、どこでも、誰かが。
で、それによって善行を施したワイとこっそり北叟笑むのでも、ない。
徒歩による大旅行ゆえ、当然、大晦日も正月も旅の道中にやってくる。
今の感触でいえば、とてものコトそんな時期に人なんか構ってる場合やないわという感じなのだけど、この時代は、どうも違っていたようである。
「年宿」という言葉までが全国的にあり、これは、諸国を漫遊しているような人を年末年始にかけて泊めてあげるコトを云うのだそうでアル。
その地その時期、泉光院さんには声がかかる。
「年宿をウチでやりませんか?」
苦労してそういう方を捜すまでもなく、先方から声がかかる・・・ それもお金にゆとりのある家だけでなく、アバラ家住まいの人も、そうやって声をかけてくれる。
親切といったレベルでない何か別の価値観が江戸期には、あったようである。
これを儒教的な世界だったと、今はいう。
昨今、 儒教といえば、古い、硬化した想念と思われがちだけど、元来の「仁を根本とする道徳」の良質な部分が、当時の日本には、隅々まで細胞化していたように思われる。
見ず知らずの方をほぼ無料にて家に泊めてあげる、この行為には、見ず知らずがゆえに信頼と信用がなくてはとても出来ないと今は思われるのだが・・
「仁」といった言葉も気分も実体もが単独ではもはや存在しない今は、たまにあっても、「ヤクザの仁義」に代表される何やら厄介なものが想起されるだけという有り様。
今は「愛」が叫ばれる。あるいは行政の下で、「ふれあい」という名のアレコレが取ってつけたように闊歩する。
「ふれあいコミュニティ」
「ふれあい広場」
「愛は地球を救う」・・・・・
名のみの実体の希薄な空疎がアチャコチャに蔓延するのみで、「仁」は絶滅したかのようなアンバイ。
仮に私が、どこかの地域の、その「ふれあいコミュニティ」にブラリと立ち寄って、一泊を願って・・ かなえてもらえるかしら?
「前例がないし、そも、そういう場所ではないし」と断られるだけの話だと、思う。「ふれあいコミュニティ」に、である。
この本の中でオモシロイと思われるのは、江戸時代に、女性ばかりの旅人があったという事実だ。
主として観光。
数泊、時に数週間の、徒歩旅行(徒歩以外にはないワケだけど)を仲の良い女友達ばかりで敢行していたという事実があるワケだ。
男尊女卑のイメージがあり、しかも、街道には怪しい雲助の類いが横行していたというのは、どうも後々のテレビの時代劇などなどの影響のコトで・・ 実際の江戸期には、どうも、そうではなかったようなのだ。
女性は、全てがそうであるとは限らないにしろ、結構、この辺り、闊達であったようである。
関所とか関所破りとか云うのもあって、旅行なんぞママならないと思いがちだが、実際の関所というのは、地域によってあるにはあるけれど、脅えてひれ伏すような所では、どうやら、なかったようである。
関所を通過する時には「通行手形」というのを提出するコトになっていたようだが、これとて、幕府が個別に発行していたワケではなく、自分の属するお寺から配布される身分証明としての「札」というだけで、一般的には関所が難儀の賜物という次第では、なかったようである。白昼に街路の影に潜み隠れるようにしてヤッテル交通検問の姑息より相当に気軽な「検問所」であったような感じである。
武家御法度とかいったタンゴを学生の頃に聞いたろう。
幕府によって、アレしちゃいかんコレしちゃいかん、という武家に対する厳重な規律なのだけど、これが、今までガッコで習ったような厳格なもんではなかったというようなコトが最近少しずつ判ってきた。
例えば、我が岡山で例をいえば、岡山城というのがあるんだけど、この城がドンドン改築されてデカクなったのは、武家諸法度が施行された後のコトだ。
諸法度によれば城の改築なんぞはもっての他で、勝手をやればお家断絶や!ってな厳しいもんのハズなのに、岡山城はその時期、ドンドン改築しちゃってご立派なもんになっちゃった。
どうも・・
なんか違うぞ、実像が、という感想である・・
武士階級やら商人階級やら存在したコトも事実なれど、到るトコロ階級分別化されていたというワケでもない。
遊郭では武士も町民も同列だし、江戸期全般に渡って流行っていた俳諧の世界もそうだ。
俳句を読むのは今や『特殊』だけど、江戸の頃は武士からお百姓に到るまで、けっして『特殊』なモノではない趣味的文化的な日常のものだった。大小中、全国無数無名おびただしい数の句会が催され、ムロン、その大部分はそこいらの民家での出来事である。
ちなみに俳句を五・七・五の小句にしちゃったのは明治の中頃で、江戸の頃には、蕪村も芭蕉も、やってるのは連句である。
誰かが、
「柿喰えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
とやれば、誰かがそれを接いで、
「カラスも喰うや 古都の柿 ぁあ旨め〜」
ってな感じで、コトバのイメージを膨らませたり縮めたりの、コトバによるイメージの飛翔を楽しむもんだった。
今、私らが知ってる芭蕉の句なんかは概ね、その連句の中の一行だ。
(高名な先生方ゆえ、たいがい、一番末尾に、締めとして発せられたみたいだけど)
それゆえ、思い返すに、江戸の時代というのは、この連句に見られるようにズイブンと遊びが高雅で高尚なのである。
革命によって明治が到来し、以後、『文明開化』の名の元で、大正、昭和、平成と続き、江戸の時代は遠き悪しきモノという次第が定着してしまったのだけれども・・ さて、ホンマはどうなのか?
非常に良かった部分までが、捨てられたのではないかしら。そんな感じがする。
もちろん、その江戸の時代には、その創世期、例えば島原におけるキリシタン農民への大弾圧もあった。籠城して幕軍と戦った彼ら3万人はこどごとく惨殺され、弔われるコトなく放置されたし、かたや北海道では原住者たるアイヌ達が松前藩の狡猾な手勢によって徹底した搾取を行なわれていたりもした・・ 今の青森県辺りの南部藩では商業経済がドド〜〜ッと流入した挙げ句に農民が土地を取り上げられて小作人になりさがった、といったコトもある・・・・。
が、それでも、総体としていえば、江戸時代というのは、時間が経つうちに、やはり成熟し発酵していった社会であったんだな、という感想を禁じえない。良質に熟成したという意味で。
産業といえばせいぜいが蝋燭を作る程度の貧しい国ながら、よくまとまった落ち着いた国であったという感想がフツフツ湧いてくる。
明治・大正・昭和と、米国やらヨーロッパに追いつこう、仲間に入れてもらおうと果敢にきばってきたワケだけど・・ なんか、江戸の良質な部分を見ていると、そんなのアホみたいという気分となる。
懐古しつつ、それを趣味的範疇にとどめず、いっそ見習うべきは、明治以前のお江戸にござる・・ って感じである。
さて、そんな次第で、21世紀だ。
まずは、自宅前の溝の掃除からはじめるか。
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