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玩物喪志
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昔々の大昔。最初に道具を手にした人がいる。おそらくは石、おそらくは木の棒・・。
映画「2001年・宇宙の旅」はこの辺りの事情をうまく表現して私達をハッとさせてくれたけど・・ そこに登場のサル(最初の人だね)にとって、あの棒はどれほどに深い意味があったろうかと思わずにはいられない。
おそらくは肌身離さず持ち歩き、その棒以上に強靱で太いものを仮りに手にしても、彼はきっと、その最初の棒は手放さなかったのでなかろうかと・・ そんな風に思いもする。
半ばの確信として思うのだけど、彼はあの棒を生涯持ち歩いたのだ。
部族の他の者は彼のその棒よりも、硬く、太く、長い、より強靱な棒を手にし、より大きな獲物を倒したりもしたとしても、彼はやはりあの最初の棒を使っていた、とそう思うのだ。
それを持ち続ける自分を説明するコトバを彼は知らなかったろうが、ボクらは声にするコトが出来る・・
「愛着」とも「執着」とも、いえるモノへの情愛だ。
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モノを作る現場にながくいる。
TVC-15という小さなメーカーを創めてもう16年になる。
我が心が欲するモノをば作る、を基本に指を動かすというコトを繰り返してきたけれど、ふと気がつくと、 少なくとも模型という小さな枠の内にあってすら、自社のそれをも含め、今、おびただしい量のモノにあふれている。
大量、膨大、な数のモノにあふれている。
爛熟、狂瀾、の気配も濃厚にある。
そこから、嬉が生じ、悲が生じる。
モノに溺れて、わが身を失うコトを「玩物喪志」という。
場合によってモノは妖獣と化す。モノが人を呑むのだ・・・・・・
模型、玩具、本、CD、ビデオ、何かのパーツ、何かの形骸・・
わが部屋をチラリと眺めても、おびただしい物量の浸透に目を蔽いたくなる。
惨状と呼んでもいい。
時々、この迫り寄る物質の海から逃れたいと、思う。
モノは勝手にやってきてソコにあるワケではない。我が手が、我が心が、それをチョイスしては運び入れたに過ぎない。
いいなぁ、コレ・・ の一声と共に集めるともなく集まってきたモノ、モノ、モノ、モノ・・・
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モノはモノ言わぬ静物でありながら、時に、雄弁に、多弁に、饒舌に、コチラに何かを語りかけてくるコトがある。
訴えであったり、悲であったり、嬉、であったりもするけれど、個々の声は小さいながら、それらが一斉に蜂起すると大音声の騒音になる。
そうなると、ちょっと居たたまれない・・
逃げ出したい衝動に駆られもする。
時々、どうしようもない程に「何もない空間」を希求するコトがあって、それは例えば、モノが一点たりともない真っ白い部屋とかいった類いの欲望であるけれど、そんな時はおそらく、内なる声がレスキューを叫んでいるのである。
モノから隔絶されたいと思う気持ちが、時に痛切に、湧き水のようにしみ出て来る。
「玩物喪志」な状態に陥りかけているのであろう。
とはいえども、モノなくして生きていけない「今」があるのも確かである。狭義の意でも広義でも、そうである。
モノとどう折り合いをつけるかが問題である。
さりとて、ここでは物質文明を呪うような呪詛を紡ごうというのではない。
個々のモノどもとジックリ対話してやろうとの企てで、ある。
いっそ、モノに近寄り、心を添わせ、我が方とモノとの新たな関係を導こうとの試みである。
剣豪は相手の懐に飛び込むコトで先方の切っ先をかわすそうである。
モノにコトバを与えるコトで、モノとわが身に、逆に、ある程度の線引きが可能でないか?
モノとの距離をはかれないか?
決着がつくものはつくのでないのかい?
と、そのように愚考する。
あるいはまた一石二鳥に・・ モノを語る事で私は私自身を語れはしないだろうか、とも愚慮するのだ。
モノガタリ・・ である。 |
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