眼の魅了
 鶴田真由さんの笑顔が、イイのである。
 宮崎美子さんの笑顔が、イイのである。
 このお二方の笑みは、ムロン、ドラマと映画の上のコトながら、ともあれ、私にはこの上ない「笑み」と、近ごろ、映ったのである。
 不躾な申し方で恐縮だが、この笑みには、性的な刺激を受けるというニュアンスは薄い。
 薄いけれども、その笑みは男性には属さない性質を持った魅力に充ち満ちていて、イイ。
 イイ、としか声に出せないホドに、イイ。

 基本としてテレビを見ないというのが私の方針である。
 テレビドラマの類いはココ数十年、見たコトがない。
 だから時に、そのコトで話題についてけず、知友にバカにされるコトもあるわいな。昨今の女優男優タレント名、ほとんど皆目知らないワケゆえに、山中のタヌキに異国のキリンやらアリゲータを説明してもはじまらないといった、トンチンカンが始終生じる。
 キンキキッズなるモノが誰であるかを、先週、はじめて知ったくらいに、メチャに昨今の芸能事情には疎いのである。

 まぁ、それでも、時に、ちょっとだけ、フスマ紙に穴あけて内部をこっそり覗き込むようなマネは、やっておる。
 たまさかに、そうやって、最近、NHKにて「菜の花の沖」を見た。
 コズルクもNHKは、その契約者を増さんと、当初、この5話完結連続ドラマ番組をハイビジョンのみで放映し、数週後、地上放送はもはやオマケでっせという気配でもって、我らがテレビ受像機に映してくれた次第だが、まぁ、このコトは今回これにとどめ・・・ ともあれ、そうやって地上波で放映されたこの番組を、見た次第。
 で。
 ここで鶴田真由さんの笑みを見たワケだ。
 演じるは高田屋嘉兵衛の妻・おふさだ。
 素直ながらも芯が一本通ってるというこの女性を、彼女はうまく演じていらっしゃる。
 で、嘉兵衛役の竹中直人とのやりとりやらでもって、笑みがこぼれるのであるが、これがイイのである。
 笑みがまことに自然で、かつ、活き活きとしていて、そのたびに画面がパッと華やぐのである。陽光が地を照らし瞬時に温かいと体感出来るのと同様な、親和感のある喜びが画面にこぼれるのである。


 宮崎美子さんは、映画「雨上がる」である。
 かねてより、笑顔が、とにかく、この人の場合、ダントツにイイ。
 その良さが「雨上がる」では遺憾なく発揮されていて、見ていて気持ちがイイのである。
 美子さん演じるは浪人・伊兵衛の妻・たよ、である。
 終始ただ夫に忍従しているかに見える彼女が映画の後半で、それがそうでないコトが判るようストーリーは仕立てられていて、この辺りも俄然良いけれども、そのたよさんをたよさんたらしめている源泉は、やはり、美子さんのその存在感ある笑みというコトになる。
 彼女のマブタはかなり厚い。
 腫れぼったい印象すら、ある。
 その厚ぼったさが、彼女から鋭敏な感触を抜きさり、どこか悠然とした、たおやかな印象をもたせるコトになるようなのだが、母性的な穏やかという以上な蠱惑がそこに垣間見えるようでもあり、そこに魅力をおぼえさせられる。
……
 この両者の目尻は、共通するトコロ、やや垂れ気味である。
 左右の端っこで、やや、たれておる。
 この垂れたるが、笑うと、黒めがちな、ぶっちゃけて申せば「お多福」のような、えも云われないイイ雰囲気として、ゥキャァア・・ って胸キュン(古いか)な気分をこちらに催させるのである。
 福笑いのあのお多福に、今時、性的なリピドーをおぼえる方はいないと思うし、事実、ワタクチもその通りでありますが、真由さま、美子さまが、顔中ふくよかオタフクでゴザ〜〜イってな次第では、この場合、ムロン、そうではゴザラン。
 両者共に美形である。
 清廉な気配の美人である。清廉(せいれん)は、心が清らかで私欲がないコトをさすのはムロンだが、その美麗に、垂れた目尻が付随した途端、笑みが重層的な魅惑の根源となる。
 真由さまの場合、垂れ目というには酷である。
 大きな眼である。
 輪郭のクッキリした綺麗な眼で、むしろ、丸っこい眼をしてらっしゃる。
 目元がプックリし、そのプックリに一条の線がはいる。
 遠目に見れば、くたびれた、老いた眼とも、とれる。
 されど、一筆描きとして彼女の眼を描くとするならば、上端、眼の上っ側のラインは、お多福のそれ同様、端に向けてまろやかに垂れたラインと、なる。
 たぶん、いや、おそらくはこのラインが、一切の魅惑の放射点だ。

 ただ、冒頭で書いた通り、日常、テレビを避けているワケゆえ、逆向きに考察すれば、テレビという画像に関して私は空腹である。
 その空きっ腹に、たまにドラマなんぞを映じさせれば、綿に水が浸透するような現象が起き、砂漠さ迷うた果てにやっと飲んだ一杯の泥水を非常にうまく感じるような、飢餓による味覚の擾乱が生じる可能性も、ある。
 ドタバタ室内を駆けずる幼児がテレビ画面に接してフイにドタバタをやめ、ただ、ポカンと口をあけて画面に食い入るような、トコロがある。
 だから、そんな乾いた状態でもって、たまたま見入ったのが鶴田真由さまであったというに過ぎず、もしも別人であるなら、それはそれでまた魅了されていたかもしれず・・ この辺り、一概に決然と真由さまのみ抜きんでておるとはいえないのだが、その眼の魅惑は、たぶん・・・ 普遍である。

 実のトコロ、近ごろは、テレビに加え、新聞もロクに読まなくなっている。
 あまりに暗い時世にニュースを追うコトが虚しくも思えて、それで何となく、斜めにザッと読み拾う程度しか新聞と接しないというコトになりつつ、ある。
 加えて、記事がつまらないというのも、ある。
 例えば・・ 1/23付けの山陽新聞朝刊の国際面。
 マニラ発共同として沢井という記者が、新大統領がきまったばかりのフィリピン事情を『貧困撲滅へ難題山積』と題して、記事を載せているけれど、
「新大統領はまずは順調な船出を果たした。しかし、このまま順風満帆な航海が続く保証はない。〜〜中略〜〜 解決困難な課題が、女性大統領の小柄な肩に重くのしかかる」
 などと、書いている。
 お気づきか?
 おかしい、と思わんか?
『小柄な肩に重くのしかかる』という修辞が、差別的、あるいは女性別視な視点であるというコトに、アナタが気づかないなら、アナタもまた、この記者同然な方と、私は思わねばならない・・・ 。
 新大統領が肩幅もいかついデカイ女性であったなら、この記者はそこをどう書いたろうか?
 大統領職と小柄な肩は、何の関連もない。何の関係もないコトをあえてそうやって書いているトコロに、この記者の無自覚な女性感が漂っている。あるいは、この記事をそのまま載せた新聞社の未開が、匂う。
 ホームズ風に推論するならば、この記者の身長はアロヨ大統領よりデカイに違いなく、肩幅もあるに違いない。小さな体躯の者に弱さを見る傾向のある人なのであろう、きっと。そして、女性を肉体的にしか捉えない視線というのが、根底にあるようである………
 昨今、そんな不用な修辞のある記事が多見されるのである。
 そんな細かいコトってどうでもイイじゃん、と思うアナタがそこにいるなら、私は、そのコトをちょっと軽蔑する。新聞は公平たれが原則だろうし、より「公」なものであって欲しいと願うのである。そう願うがゆえ、修辞のただの一つでもおろそかにするな、と申したいのである。
 まぁ、そんな仔細あって新聞からいささか遠退いても、いる。
 私自身、修辞多用の文を書くのを好みとしているけれど、この辺りの事情には、マジで気をつけていたいと最近はかなり深く思っているのである。

 話がそれた。 (^.^)

 ともあれ、太古の昔から今に到るまで、男性諸氏は数多の女性の眼に魅了されてきたに違いない。
 とりわけ、眼が物語る「笑み」の意味するトコロに、時に溶けたり、時に困ったり、時に感嘆したり・・を繰り返してきたに違いない。
 さぞや惑わされ、乱され、大いに苦悶し、大いに歓喜した、に相違ない。
 じっさい、私もそうであったし、そうであり続けるだろうとも思ってる。
 むろん、逆例も男性のそれ同様にあるだろう。
 ゆえに、笑みのいかす奴になりたいもんだ、と17歳の少年のようなコトを今更に書いても、誰も文句はなかろう、な。
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