|
自転車通勤を開始して、もう一年が過ぎた。
昨年の4月末からのコトである。
片道ほぼ6キロ。
往路12キロが、はたして距離としてデカイのかショボイのか、いまだ判然とはしないのだけど、その片道6キロをだいたい25〜30分で駆けている。
国産のさほど高くもない自転車を使っている次第だが、月火水木金、週に5日、週に60キロ、月に概ね240キロ・・ 年間にして2880キロを、右足と左足でもってこいで来たコトとなる。
走路に二本、橋があり、橋というのは登って下るという次第になっているから、いわば2つの丘陵を日々駆け登り、駆け下りるというような、自転車の駆動系に負荷あたえるコトをやってるもんだから、おのず、我が自転車はくたびれてくる。
この一年で、まず、チェーンがだらしないマワシのように緩み、ついで、ペダルのベアリングが痛んだ。 タイヤは溝がなくなり、後輪は一月ホド前に遂に裂けてパンクした。
車ではないので、この辺り、費用は安い。
チェーンの張り直しやら、タイヤ交換にペダル交換を加えても総額4000円とかかっちゃいない。
言うまでもなくガソリン代も不要。
お金を使わず、さらに足が健康になったのだから、これは一石二鳥と思わねばなるまい。
自転車に乗りはじめた当初には、身体全体がきっとシェーブアップされるに違いないと思い、この一年、確かに、二の足はかなり強健になり、二の腕の健やかさもやや向上したよう思われるけれど、お腹の廻りはいまだダラシナイ・・ 自転車は腹で乗るモノではないという次第なのだろうけど、一石二鳥の目論見描いた当方としては、この一点、いささかに残念であった。
やむなく、夕食後に床に寝そべり、両足をもたげ、もたげた状態で宙に数字の1から10までを記してみるといった腹筋運動めいたマネを最近になってはじめてもいるのだが・・ いかんせん、「運動」と判っている分、心理的に追っつかない。
自転車の場合は、とにかくキコキコこいで前進させねば目的地に到着できないワケだから、 シンドイやらツライやら、ヤ〜メタという次第とはいかない。
それが床に寝そべっての「運動」となると、こんなモノいつでもヤメちゃえられるワケだから・・ 1から10までを、1から6まででハショッタリもするナマケ心がついつい生じてしまう。
四の五のと云えない状況に自身を置かないコトには、この辺り、どうやら、チッともよろしくないという気配が濃厚である。
通勤路6キロの合間に自転車屋が二軒ある。
一軒は、ナショナルのカンバンをあげた店で、ジャイアントなんかのカッチョいい自転車も扱ってるようで、もし、時間がうまくあえば、一度、窺い、新車購入に前向きに取り組んでみたいとも思わさせられるのだが・・ いかんせん、この自転車屋は、空いてる時間がエエ加減である。
私の場合、最近は朝10時に店へおもむき、夕刻の7時頃にゴーバックするというのを習慣としているのだけれど、くだんの自転車屋はオープンが11時頃で、閉まるのが6時前後という、一日6時間くらいしか営業していない様子。
しかも、11時を過ぎても閉まっているコトもあるし、時には10時にはもう開いてるというコトもあったりと、この辺り、私もかなりルーズながら、似たもの同士な親和も覚えるけれど、容易に営業中と遭遇できないという点がいただけない。
もう一軒はツノダのカンバンをあげた店でコチラはいつでも開いている。
パンクもペダルも結局ここで修繕してもらったけれど、ツノダのカンバンはあれど、ツノダの自転車はすでにない。
私のような世代の者には「ツンツンツノダのティーユー号」の名で親しまれた自転車を送りだしたメーカーとして覚えてる方が多いし、そのテレビ・コマーシャルの旋律と歌詞は、なかなか軽快なもんだったから、私など、いまだに、その唄の一番をそらんじてるし、なにより、私自身その「tu号」に乗っていたという経歴がある・・
残念なコトに、すでにツノダは自社製品としての自転車は製造していない。
会社が徐々に傾いて、いまや、僅かな数量の輸入自転車を取り扱ってるだけの規模にまで縮小されてしまい、往時をしのぶ姿はない。
だからツノダの大きなカンバンを自転車屋さんの店頭に見ても、売ってる内実はたいがいに、今はブリジストンであったりする。
自転車屋さんとしてはカンバンを撤去する費用が惜しいコトと、昔の栄華の思い出というニュアンスでもって今もって、そのままにカンバンを置いているらしい・・・
しかしながら、ブリジストンも、なかなかに今は売れないというのが実情であるらしい。大型なスーパーやらで売られる中国産の、ともすれば1万以内で売ってるコトもある自転車に食われに食われ、商売の雲行きは前途暗いです、という按配であるらしい・・
中国産の「安物」は、しかも、各パーツが従来の『規格』と一致せず、例えば、ペダルが壊れたからといって持ち込まれても、交換して一致するネジ口径でないので、修理しように修理出来ない代物なのだそうである。
それら「安物」は、壊れたら廃棄するという程度なモノで、リサイクル出来る製品ではない。
町の小さな個人商店たる自転車屋さんには、どうも、日々、そんなシロモノが持ち込まれているようである。
自転車の車軸にベアリングが入っているコトは常識中の常識と思い気や、「安物」には時に、そのベアリングすら入っていないモノもあるという。
そんな乗物ならば、おそらく1年とは乗れまい。
で、これは修理出来ません、と・・。
で、結局、その安物自転車のオーナーは途方にくれ、それを駅前やらパチンコ屋の駐輪場やらデパートの駐輪場に捨てるんだ。
で、彼または彼女が次に求めるのは、結局、町の自転車屋さんではなくって、大型店の、その安いシロモノであったりもする・・。
「とりあえず、乗れればイイから」と。
我が通勤路の途中に、山陽本線の「高島駅」があるが、そこの駅前に黒いアリ塚のようにして置かれている放置自転車の膨大な数を眺めると、 厄介な悪循環が想像できて、空恐ろしくなる。
パンクを治してくれた店の店先に1台、自転車がある。
たしか、スズキの自転車だったと思う。
「あれは私のです」
店主が言う。
「もう30年乗ってます」
と。
整備出来、整備出来る部品があれば、それが高額なモノでなくとも、自転車というのは長生きするものなのである。
「30年も・・ 飽きませんか?」
私はある種の答えを想定して、あえて、そう聞いたが、返った応えは、やはり、そうだった。
「ながいと愛着が出ますからね」
愛着・・・。
人とモノの良き関係に、この一語の気分は大きいなと実感する。
愛着を覚えるには、ムロン、そのモノが、それなりにシッカリ出来てなくちゃいけない。
モノが人に応え、人がモノに応える関係というコトについて、私らは「とりあえず」という日々の流動の中、少し無頓着になっているようである。
|