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| 新年迎えた某日某夜、民放が放映する「おろしや国酔夢譚」を見た。 江戸の時代、伊勢辺りで嵐に遭遇し漂流船と化した光太夫ら一向が、アリューシャン列島まで流された後、アレありコレありで露西亜に連れていかれ、そこからまたアレしてコレし、ハイライトに時の女帝エカテリーナに会い、終いに日本に戻ってきて、またソレやらアレがあるという波乱万丈ギターはないよな実話を2時間強にまとめた映画、である。 かねてよりコレを見たいとは思ってたのだけど、率先して映画館にも行かず、ビデオレンタルで借りるコトもせず、いつかヤルやろってな感じでテレビ放映を眺める時をうかがっていた次第なのだ。 マ、それっくらいなモンであるから、要はアンマリ期待していなかったというのが実情なのであるけれど、ともあれ、2002年の3日めの夜中に放映されたんで、見ちゃったワケなのだ。 結果・・ やはり、思った通りというか・・ ズバリいって、しょ〜もネェ映画だったのである。 この映画をお作りになった方々にはマッコト申し訳ないのだけど、見て感ずるトコロがないのである。 どのシーンもどの局面も、ハシにも棒にもひっかからないホドに無味なのである。筋はあれども痩せたニワトリという感じなのである。 結末に到っては、画面を見るのを止して、ポリポリ足の裏かいてた方が気持ちよかとよ〜、な感触なのである。賞味期限の切れた生卵をすすらざるを得なかったような気味悪さなのである。 確か、この作品、公開当時はそこそこな話題作だったと思うのだけど・・ いかんせん、コレでは・・。 モノ珍しさという点では、なるほど、珍品ではある。なにしろ邦画で江戸時代の話ながら舞台が露西亜であるから会話の大半ほとんどが字幕アリのロシア弁である。この一点において、映画「おろしや国酔夢譚」はちょっとだけ光沢をもつ。 大黒屋光太夫とその船の仲間らの数奇を知ったのは、みなもと太郎(敬称略・ごめん)のマンガである。 タイトルを「風雲児たち」という。 最初に出会ったのが何年前だったか忘れたけど・・ コミックトムに連載してた頃で、今、コミックトムはない。月刊誌だったけど、いの一番で読むというか、唯一読んでいたのが、この 「風雲児たち」であった。 早いハナシ、私は「風雲児たち」を読むためにコミックトムを買っていたのだ。 私の周辺の人は知ってるけど、基本としてワタクシ、マンガ誌は読まない。 その私をして毎号を買い求めさせていたみなもと太郎のマンガ「風雲児たち」というのは、だから、それくらいオモロイもんなんやな、とアタマのいい本項の読者諸氏は気づくとも思うのだが、いや、実際、コレが法外にオモチロイのだ。 徳川幕府成立から明治期に到るまでをギャグ充満のストーリーで描くという、有り体にいえば"歴史モノ"マンガが「風雲児たち」なのであるが、つくづく読み返すに、コレほどに素晴らしいマンガというのは他に、ない。 と、誇大に書くと、オメ〜さっきマンガはあまり読まんとぬかしたやんけとツッコマレそうでもあるが、ぅうむ、確かに多数は読んじゃゴザランが、繰り返し読めてそのたび何事かハートに刺さるマンガという存在はアンマリないでしょ・・ その希有な一例として「風雲児たち」は位置されて久しいのよ我が宅では・・ とココは切り返しておこう。 まずもって、私はみなもと太郎の絵が好きなのである。 出会いは相当に昔の少年マガジンだ。 「ホモホモセブン」というマンガがそれだ。 エロとマジとがハチャでメチャに混合した、ライトなようでヘビーな、ヘビーなようでミデアムな焼き具合のティーストに、少年のボクちゃんは眼がウロンとしちゃったワケ。 その後、まったく金輪際マンガを読まないという時代を20年ホド経由した後の某日、コミックトムにて「風雲児たち」を知って、おやまぁ懐かしやの再会となったワケだが、ムロン、マンガ家みなもと太郎は我が空白の20年の合間にもセッセとマンガを描き続けていらっしゃる・・。ホッホッホ。 で、さて。 その「風雲児たち」は今、潮出版から全30巻の単行本となっている。 大黒屋光太夫の話は、巻数でいうと、9・10・12・13・14・15・16・17辺りで分散して出てきよる。 30巻の内、実に8冊を費やして描き続けられている辺りには、みなもと太郎の、この光太夫らへの思い入れがたぶんに反映されているであろうと勝手に想像する。 なにしろ「風雲児たち」は"歴史モノ"ゆえ、光太夫ばかりを描き続けるワケにはいかない。同時進行でアレがコレがソレがと、たえず、ヒンパン繁華に何かが起っているワケゆえ、顧みて、絵にするに重要事はイッパイあるのだ。 そのイッパイを、作者は、吟味し、味見し、カットし、チョチョ切れに継続させ・・ なのだから、その作業は実に三角形のテ〜〜ヘンだったとこんなトコロで労をねぎらいたい気分を沸かしてるんだけど、多数の歴史的断面をカット削除して尚も作者が、実に8冊に渡って分散させて描き続けたのは・・ やはり、この実話があまりに象徴的かつ物語としてもオモチロイからに他ならなかったからだと、私は思う。 なるほどに、作者の思惑通り、1人、その見事な話術マンガ術にはまった男が、いる。 私、だ。 映画「おろしや...」の原作である井上靖の「おろしや国酔夢譚」は、当然、みなもと太郎は読んでいるに違いない。加えて、数多の資料もヒモといたに違いない。実際、原本たる桂川甫周の「北槎聞略」の引用が本文に置かれていもする。 笑いながらサラサラと読めちゃうギャグ風味なれど、それゆえ多くの場合、それを軽く見なしちゃう傾向もイッパンテキにはあるのだけど、「風雲児たち」を原稿として定着させるには相当量の読書と考察とイッタリキタリな錯綜と、その苦労は膨大なものであったとも思われる。 ドナイショ〜〜、と頭抱えて毛布のハシッコを噛むような痛痒めいた苦悩が日々多々あったに違いない・・ が、コマの上にその労苦な痕跡はない。コマの中では、アレやらコレやらの人物が空中2回転半のブッ飛ビを演じて、ただ我ら蒙昧の徒は氏に誘われるまま、ケタケタ笑ってればイイ・・。親の苦労を子は知らないという、それに似た感触ではあるんだろう、きっと。 "歴史"というのは教科書的教養で見るや、人名と件名と数値の羅列あるのみというコトになるけれど、実は遠大でオバケな難物である。 一台の自転車を右側と左側から眺めると、自転車という固有名の元にも、ギアやチェーンがついてる側とそうでないものの2つの顔が見えてくるわな。そのどちら側をみなしてコレが自転車でございますかといえば、どっちゃも自転車なのである。 歴史も同様、色々な顔がある。 1つの事件を8人が語ればマチガイなく8ケの事件が出てきちゃう。基幹たる現象は同様でも見方によれば、そいつは種々な色合いに変容する・・ さらに例えるなら、今日というこの日を、諸君はどう一語で言いあらわす? 一語で今日を語るための素材を何に置くかで様相はまったく違ってくる。 女のコと路上ですれ違った。23歳くらいの胸の大きなコで皮のスカートをはいている。 そこで、私は今日の印象として、「胸のデカイ女のコをみた」と記す。 が、たまたまその道路の下、金属の網のフタの下で下水工事をしてたBさんは、上を見上げた途端、スカートの中身をズバリみちゃって・・ ゆえに、その日を「ムラサキの紐パンが喰いこんでたのを見た」と記す。 結局、自身によりかかった眼で事態を記するが、すなわち"歴史"なるものの正体ではないかと、考える。 さて、そこで、「みなもと太郎の眼」で見た日本の過去な様相という物語が成立してくる。 先にも書いた通り、氏は膨大な資料を踏まえたに違いない。1ミリグラムの1コマを描くに、8キログラムのアレコレを噛んで砕いて咀嚼して時に吐き出したりなどしたに違いない。そこからの抽出と発酵と氏特有なマンガの滋味が混合炸裂し、「氏の作品」、すなわち、「氏の歴史」と化してるのが、この「風雲児たち」だと思う。 で、ウダウダ抜かし申す以前に・・ これがメチャンコ面白いんだ。 (^.^) 多数のスタッフと大金を費やしたであろう映画が、タハハのトホホなガックシ肩落とす代物に対し、1人の個人が描いたマンガが、強く、太く、随所に感じ入らさせてくれるってのは、一体ナニであろうかしら・・・。しかも、笑わせてくれるんだから嬉しいじゃないか。 私がとても好きなのは、みなもと歴史の本通りの横っちょな小さなカケラのようなエピソード達だ。 それは例えば、光太夫とキスして涙の別れとなった新蔵の、その後の顛末であったりする。 大通りの話ではない、いわば路地の裏のささやきめいた始終を、極めて柔らかな視線でくるんだエピソードだ。 歴史なるものがビッグネームな方々の年譜でないコトを氏はよく判っていらっしゃるようだ。その上でマンガ展開の琢磨がある。切れの鋭い批評眼がある。緩急自在なテクニックに女どもめらメロメロやがなの手腕がある。 日本にやっとヤットやっと帰ってきた光太夫らとラックスマンら露西亜人の別れの場は、みなもとマンガでは4ページに渡って描かれるが、その3ページ分はセリフがない。削ぎに削いで余剰のない集約に核が凝縮され、ただ光太夫らの眼の描写に一切がこめられる。 はからずも私はギャグマンガで感涙させられるのである。おギャグ炸裂なみなもとマンガに濃淡ありな人生の深淵を垣間見させられるのである。 「風雲児たち」は現在、リード社の時代劇専門コミックス誌「乱」にて継続連載されています。興味もたれた方は御一読あれ。 ほいでもって、コレおもろいワァと思ったら、迷わず、「風雲児たち」全巻を購入だ (^.^) 白状するが、私はみなもとマンガでもって愉しく学ぶというコトを知らされたんだ。尚、潮出版からは、この「風雲児たち」と血脈同じくする「雲流奔馬」5巻も出ているので、コレも買うように。 さて、次いでゆえもう少し書いておきたい。 上記で "コマの上にその労苦な痕跡はない。" と書いてるけれど、コレはみなもと太郎の視点がゆらいではいないという意味だ。実は、苦労そのものは「風雲児たち」にあってはかなりヒンパンに作者自らが登場しては吐露ぎみに語っているのである。 その辺りもおギャグな装いをまとっているゆえに、読者はほとんど意識せずに、それをストーリーの補佐のコマとして見ちゃうけれど・・ 深読みぎみにコチラの眼をはると、時に、みなもと太郎の語り尽くせぬ気分がソコに反映しているようにも見受けられ・・ この前代未聞かつアトサキ今後もコレは現れはしないであろう未踏のジャンルともいうべき、"ギャグ風味歴史マンガ"に孤軍奮闘な戦いを挑む氏の内側をチラリと垣間見るコトが出来ちゃう仕組みゆえ・・ 大いにフアン的な連帯と共感をおぼえさせられて、さらなるエールを送っちゃいたい気分と化すのである。 みなもと太郎は「風雲児たち」を書くに辺り、上空からの視座を確固たるモノとしてもっていらっしゃる。 その上で望遠鏡的視点と顕微鏡的光景をお見事に融和して物語をつむいでくれる。そこいら辺りが見事である。 氏が描き見せてくれた徳川幕府の興隆とその衰退の切り口の鮮やかさは、鮮烈を越した聡明さにあふれていて、ウジャラカ小さな文字でページ構成された歴史書をカル〜〜ク凌駕していると、私は勝手に思ってる。 歴史なるを多少知ってみたいと思うと、ムロン、みなもとマンガ一つで足りるハズはないけれど、みなもとマンガは興味への偉大な導火線たりえるし、大型な火薬樽そのものであるといってもイイ。 だから、これだけの良書が・・ 善人なをもて"みなもと"を読む いはんや悪人をや・・・なんでベストセラーにならんのか、私は不思議でならないんだ。 |
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