カラー 1
新春スペシャル (^0^)
MATANGO VS YOSHIFUMI YAMAMOTO
新春にふさわしい企画をと、TVC-15の山本とマタンゴの対談をやってみた。
が、読めば判るが話はアチャコチャ脱線する・・ 脱線したまま尚駆けるという対談である。収録は20世紀の末の12月、都内某所と岡山某所にて行なった。
転がる石さながらの話の迷妄ぶりをお楽しみあれ。
長文ゆえ、ユックリと・・
マタンゴ 山本
TVC-15のディフォルメキットのデザインを筆頭に最近は他社キットのデザインも担当のコミック・アーチスト。 おなじみ… TVC-15の顔。呑んでクダ巻く以外に取り柄がないスケベな人。
2001年になったね〜〜
山本
さて。
20世紀が終わりましたね・・ マタンゴは、なんか感慨がある?
マタンゴ
ありません。
1999年の暮れに、「来年はいよいよ21世紀か」と感慨にふけっていた大馬鹿者にそんな資格はありません。
(苦)
山本
ぁ、1年ズレてたのね。
マタンゴ
まあとりあえず、恐怖の大王はもう来そうにないのだけが救いではありますが。
20世紀だの21世紀だの、いったい誰が決めたのやら。大体、世紀なるものは成り立ちからしてご都合的なモノでしょ。心の底から「めでたい」と喜びを噛み締めるには根拠が薄すぎます。
あ、私は右翼ではありませんので、念のため。
山本
21世紀になってワァ〜〜イと浮かれるようなコトは確かに何にもないし、日付が自動的に変わって数字の上で世紀が変更になったというダケなんだけど、なんだか、人間って、こういうケジメの数字にはこだわりがあったり、ある種の思い入れなんかをそこに托したいと願うようなトコロもあって、まぁ、単純にいえば、文章の「。」みたいな感触はボクにはあるね、句読点を打つコトで息をつぐような、ね。
で、21世紀だけど、大昔、中学生の頃にオーウェルの「1984」を読んで、そんな時代になるのはイヤやなぁと読みながら思ったりしたけど、実際の1984年になった時にゃ、その時の気分はもう忘れてて、ア、なっちゃった・・ て程度でしたな。
マタンゴ
私の場合「謎の円盤UFO」ですね。
「1980年・・・」って、未だにスカイダイバーもインターセプターもムーンベースもエリス中尉も無いワケだし。
冷静沈着ストレイカー司令他はどっかのアニメで似たようなのがいましたが。
実際にあの辺りからですかね、すでに古典とされてる特撮作品とかの年代設定に現実の年が追いついて来始めたなぁ、と意識しだしたのは。
「なんや、現実の科学とかって、意外と進歩するのが遅いんだなぁ」とか思ったものです。
山本
今回、「2001年・宇宙の旅」のその2001年に今ついになっちまったっていう妙な感触があって、これがボクには「妙」という感触が1番でかいのだけど、あの映画の世界とは違う2001年を迎えたってコトにチビリと寂しさみたいなものも覚えてるな・・
マタンゴ
寂しい、ですか。
ウ〜ム、これはわかるようなわからないような・・。
山本
「2001年・宇宙の旅」はボクが中学生の時に封切られて、結局この時はライブとしては見るコトが出来なくって・・ 今のようなビデオの時代じゃないんで、次に映画館公開されるまでジッと待ってなきゃいけない。
初めて見るコトができたのはそれから6年だか7年も経ってからで、その6〜7年の間に、期待がもう大雪のように積もっててね、アレコレと本も読んでるし、とりわけ、大伴昌司氏が編集のキネマ旬報社の「SF映画大艦」ね、これの巻末に詳細な写真入りの映画採録があって、これを穴があくくらいに見てるもんだから、もうシーンは全部アタマの中にあったの。
でも、それがどう動いたり音がどんなモノかなんてコトは判ってないからね、いわば頭デッカチの知識だけの経験のないバージンみたいな状況でもって、で、遂に映画と対峙したワケよ。
猿人が骨を放り上げるとソレが次のカットで宇宙船になるシーンも、本で知識を得ていて既に知っているワケだけど、でも勝手にね、そのシーンはオーバーラップだと思い決めてたんだ。が、実際の映画じゃ、御承知のように、唐突にパッと宇宙船に切り替わるんだね。幾つもの写真とシナリオから一切のシーンを自分なりに組み立ててたのが、アチャコチャでかなりイメージしたものと違うので、だから変にガッカリしたり逆にハッと眼をはったりと・・ そんな次第あって、数年に渡って構築したイメージと実際の映画とがここでやっとカチッと組みあって、この映画がボクにあっては一種の記録映像みたいな強毅なモノとしてインプットされたみたいなトコロがある。
マタンゴ
ウ〜、スゴい・・。
私の場合は1年待たされた「スターウォーズ」がまんま同じ状態でしたが、ここではソレは置いといて。
幸いな事に、私は大学の時に初めてリバイバル上映で「2001年」をスクリーンで観る事ができました。
アレは映画館で見なければお話にならない映画の一つですね。TVのちっちゃい画面では絶対ダメ。
TVではあの虚無、と言うか、絶望的なまでの宇宙の奥行きの深さみたいなモノは絶対に味わえない。布団に寝っころがって照明つけっぱなしでポテチかじりながら近所のレンタル屋で借りてきた「2001年・宇宙の旅」ではダメです。全くの別物です。
山本
別物ですな。
(うなずく山本)
マタンゴ
映画館で見ると、何とも言えないスゲー緊張感と言うか、圧迫感があったのを覚えてます。休憩に入ると、自分の体が硬直してるのに初めて気が付く、と言うか。でも私、馬鹿なもんで、何がどうスゴイのかがわからなかった。今でもわからない。
でも、スゴイ、という感覚だけはシッカリ残っている。なんなんでしょうね、コレ。
色々な「2001年」評はあるんだけど、その辺スパッと説明してくれたモノには未だお目にかかってないし。
「世紀の大愚作」とする意見もあるけど、それにも承服しかねるし。シッカリ作りこまれた映画なんだろうけど、描いているモノはスゴク感覚的、とでも言うか・・・・・・。
騙されてるんじゃないでしょうか、もしかして。
(笑)
限定された施設なり空間なりで観ると別物に見える、という事は、案外テーマパークとかにあるその手のイベントものに近い効果があるのかもしれませんね。醒めた意見で申し訳ないですが。
山本
いやいや決して騙されてはおりませんぞ
 
(^_^;)
心を開いて信ずるままにアレはみなさい・・
で、まぁ、その2001年に今なって・・ 「ディスカバリー号」という名のスペース・シャトルや若田さんなんかの日本人の乗員も存在するけど、映画の2001年と現実の2001年の、この相違にね、なんか「妙」だなぁ、て感じネ。そこに自分が生きてるってのが一番なんだか妙だけど・・
「2001年・宇宙の旅」と今の現実の2001年を対比するってのも何ですけどね。
山本
ところで、この映画に出てくる「モノリス」ね・・ 数多の映画のプロップにあって、これっくらい模型化しにくいシロモノってないね。
黒一色の長方形って、概念としてすごく魅力的なんだけど模型化というコトを思うとこれほど難しいモノはない。硯(すずり)の墨(すみ)みたいで、実際、アレによく似た墨をボクは持ってたコトもあるし、カタチとしてはね、正しい比率と正確さでもってプラ板をカットして張り合わせちゃえば、容易に出来ちゃうのだけど、カタチは出来ても・・ モノリスの意味するトコロは作れないんだね。
だから、模型化という、いわばの「卑小」を拒んでるような存在が、モノリスだね。
なんかモノリスは単体ながらも、周辺の景色なり景観を必要とするみたいなトコロがあるでしょ・・ ディオラマにして初めて意味をなすみたいな。でも、ディオラマにしちゃうと物語がそこに固定されて、映画のシーンの追想はちょっと出来ても、モノリス自体のパワーというか神秘性やらは模型から除外されちゃう。
どんなスケールで作ろうと、作れど作れど、あのモノリスは再現出来ないという感じ・・・ 結局、モノリスは形のない無形みたいな、意識の中にしか住まうコトの出来ない、で、意識の中では形を結ぶような、ヒジョーに高度な抽象性を帯びたシロモンやなぁ、と最近ね、
「いやぁ、まいりました、降参です」
と、モノリス黒板には頭があがらないのですネ。
マタンゴ
石!!(笑)
墨の方じゃなくて硯の方ですよ、山本さん。
芯まで黒い石と言うか、一枚岩を加工して、手で延々磨き上げて実物大のモノを作る!
コレでなきゃ認めない!
プラ板なんか論外です。
で、出来たヤツをどこかの典型的な日本庭園のど真ん中に設置。絵になりますぜ〜!
これなら無敵。
どこに置いても絵になるハズだと思うんだけど・・。
墓場以外なら。
山本
ぁ・・ それは思いが至らなかった。
硯のでかい板で、バッチリ作って日本庭園か・・ ぃ、イイわ、それ。とってもイイ。ベルサイユ宮殿やらより、日本庭園ってトコロがバッチグーだ。
バッチグーってのが古いけど、なぜかイメージとしてはモノリスと和式は似合う感じが確かにするなぁ。もっとも、それはもう模型ではないね。模型に固執してるワケじゃないけど。
日本庭園で思い出したけど・・ 「竹取物語」ってあるでしょ。
マタンゴ ええ・・
山本
「竹取物語」って、作者も制作年もただ平安期の頃やら人というだけで一切が不明だけど、ファンタジーとかSFといった領域をポ〜ンと凌駕した大の字がつく傑作だと信じて疑ってないんだ、ボクは。
かぐや姫は物語の最後で月に帰還する次第だけど、地球と月への移動方法が、シャレてるでしょ。確か牛車ですぜ。
で、お付きの女官やら衛兵やらのちょっとした人数が、金色(こんじき)をした雲みたいなものでスーッと運ばれていくんだねェ。
牛車は直接に牛が汗かいて天空に登ろうとしてるんじゃなくって、あくまで乗物だね。この辺りの科学的説明は一切なし、っていうのがイイですな。
竹取物語・・
マタンゴ
月に帰るシーンは中国の仙人とかが昇天する話の影響が強いですね。
仙人にもアチラには色々あって、俗世を捨ててるタイプもあれば、俗世で普通の人たちと暮らしながら修行してるタイプもある。で、後者の方がある日「迎えが来るから」って家のまわりを掃き清めて待ってると、天からまさにかぐや姫お迎え御一行様みたいな集団がやって来て一緒に天に昇る、と。
そういう話がいっぱい転がってます、アチラには。
牛車はさすがになかったと思うけど、ソレは日本的なアレンジでしょう。
その他にも中国やらインドやらの説話の影響がアチコチにあるんだけれど、じゃあ、かぐや姫の話はそういったモノのツギハギでしかないのか、と言うとそれは違う。ちゃんと日本人の好みといったものが盛りこまれている。何と言ってもお話のメインにあたるかぐや姫というキャラクターがそれにあたるでしょう。
「なよ竹のかぐや姫」ですぜ。
グッときますよ。
はかなげで抱きしめると折れてしまいそうで、でも決して折れない、竹だから。
山本
しなやかに、しなやかに・・ ですな。
いや、ムロン、かぐやの姫さんが竹製というワケではあるまいが。
マタンゴ
派手な華やかさとは無縁だけどあくまで清楚で清清しくてけなげで、でもいつか月に帰らな色くてはならないから時折フッと影を見せる・・ 
病気ですかね、ここまで妄想するのは。
山本
びょ、病気とは思わんが、アンタらしい、とは思います。
時折フッ、の辺りに陰影のある女性を好むアンタがよく出てます。
でも、迷わされたらアカンで〜〜・・
マタンゴ
いや、健康な日本男児ならコレにコないハズはない。
声は皆口裕子さんかなぁ、とか。
ともあれ、他から色々とお話の要素を借りてきて、それをモザイクのように構成し直しながらも物語の核にあたる部分(ここではキャラクター)にはシッカリと日本的な好みの部分を持ってくる。いやあ、今も昔も全然変わってませんわ。
(しのび笑う)
創作にせよ何にせよ、コレが得意なのは昔からなんですなァ、日本人は。
でも失敗もあるけど。少なくともUFOが降りてきたりしちゃあダメダメです。
山本
「説明」しようっていう、求心力としての力が強く働くような気がしますね、何につけ・・・。
いっそ、「説明」なしを遠心力として、ブ〜ンとね、作品をブン廻せばいいんだけど。細部にこだわって大筋を忘れるというか、そも、大筋がなきに等しいってのも多々あるような・・。
ディティールへのこだわりも重要と思うけど、ディティールだけで作品は動かない・・ 最近の、例えば東宝ゴジラなんか、そんな感じでしょ?
マタンゴ
良い例ですね。
(共々、遠い眼で苦笑する)
マタンゴ
ホントに脚本があるのかどうかも疑わしいですね、最近のゴジラ。あるにはあるんだろうけど、書いてる人が見えてこないと言うか。
「船頭多くして船山に登る」じゃないけど、モノ作りって民主主義の原則は無視してイイのにね。もっと独善的なまでのゴジラ像が見たいなぁ。
今のゴジラは叩く気すら起こらない。何かに振りまわされてる感じですね。
ああ、それにくらべて「ガメラ」はイイなぁ。三作で終わりってそりゃムゴいですよ。
もっと見たい!
山本
その竹取物語で唯一危ないなぁ、と昔から思ってるコトがあって・・ 竹取の翁が竹林に入って一本の竹を切ったら、かぐやの姫が黄金の輝きに包まれてオギャーと出てくるんだけど、オキナが鉈(なた)をもう少し低い位置でふるってたら、かぐや姫、マップタツだよね。
なんか、そのコトを小学生の頃に思って、いやぁ、うまい具合に竹を切ったなぁ、しかし生存率は五分五分くらいだったかもよ〜〜、なんてね、心配なんかしてたりもするんだ、馬鹿だね。
マタンゴ
そういう4コマ漫画は昔、星の数ほど見ましたから・・ さすがに今はあまり見なくなりましたが、多分100人中98人ぐらいはそう思うんじゃないでしょうか。
ただ現実的に考えてみると、自分がそういう状況下に置かれた時、正体不明のモノの中心部にイキナリ鉈を打ちこむ勇気は無いですね。
今みたいにSFが普及している現代においても、実際に竹林で根元が光っている竹を見つけたらコワイでしょう。
衝撃で爆発するかもしれない、何かえたいの知れないモノが飛び出てくるかもしれない、ならば発光部を少し避けた上あたりを切ってみて中を覗いてみようか、という判断は妥当でしょう。
覗いてみて顔にでも貼り付かれたらコトですが・・ 竹取一筋ン十年の翁の判断は適切だと思います。
(マタンゴくぐもった笑みをこぼす)
山本
あの当時の衣装、十二単衣(じゅうにひとえ)でしょ。
あれは文字通り12枚着込んでるから、重いし、厚いし、さらには暑いだろうし・・ 夏場なんか大変だったでしょうなァ。
マタンゴ 絵本とかのイメージのせいか、かぐや姫って十二単衣というイメージがあるんだけど、設定では庶民でしょ。
庶民が果たして十二単衣を日常的にまとっていたのかどうか? 通ってくる貴族が着せたのか?
(マタンゴくぐもった笑みを再びこぼす)
山本
当時の衣装関連の本で調べると、平安時代の宮廷内なんぞで申すと、女性はその十二単衣を着て、顔はね、眉を全部抜いてんの。で、おしろいで顔中を真っ白にしてたみたいで、唇も白で消してた・・ 
もう、これはノッペラボウですね、今の感覚でいうと。
マタンゴ
眉毛抜いて顔真っ黒にしてケータイがウルサイバカ女ならそこらにゴロゴロしてますな。

このコはウルサイバカ女ではないです。たぶん・・
山本
で、当時は、ほんらいの眉のかなり上辺りに引き眉という化粧を施して眉っぽい演出がなされ、ほっぺたの両端に僅かに紅色が塗られると。
御殿にはムロン電燈がないんで白昼でも宮廷内はかなり暗い。雨戸を閉めきってる室内を想像すると、どれくらいの光度か判ると思うけど・・ ともあれ、その暗い室内に彼女らは坐ってるワケね。
その彼女の元に、例えば、光源氏なんかが通ったりしてるんだけど、彼女の歯は御歯黒で、真っ黒に染めてある。
御歯黒の風習は江戸時代まで続くけど、ともあれ、暗〜〜い部屋の中、唇まで真っ白なノッペラボウが笑いやがると歯は真っ黒で・・ とてものコト、今の感触じゃ、そりゃバケモンだね。
光源氏のようにエッチしちゃろ〜という気分にはならんでしょ、これは。もう、ダンコ、バケモノ! 
ゾッとして足が竦んじゃう・・・・・
マタンゴ
光度が少ない、という事はモノの形やデティールがわかりにくくなる、という事なので、次第に派手な化粧になっていったんでしょうなぁ。少しでも目立つために。
「枕草子」だったか、白粉(おしろい)がはねてエリについてるのが見苦しい、とかあったので、当時としても「コリャ行きすぎちゃうんか?」という醒めた視点はあったと信じましょう。
決して昔の人の感性がヘンだったというワケじゃなくて。
山本
源氏の君は、「におうばかりのかんぼせ」とか言って、昂奮してる。
におう、というのは「光って」という意味らしいけど、当時の美学はまぁ、そんな次第で、今とはかなり違ってたコトは確かですね。
マタンゴ
お歯黒って、確か江戸時代では既婚の証明だったと思うのだけれど、平安時代ではどうだったんでしょう?
山本
宮廷内では女性は全員、御歯黒です。
マックロね。
だから笑うと、入れ歯はずしたお婆さんって感じに18歳の美人もなる。
ヤダ・・・
ヤですねぇ。
山本
ヤでしょう、アンタでも。
マタンゴ
はぁ・・・
山本
時代がうつろうと好ましいと思うモノもかなり相違するんだなぁ、という感慨を持つけど、最近、マタンゴも思ってるみたいだけど、着物ね、着物ってイイ感じですよね。
さすがに十二単衣まで遡る元気はないけど、少なくとも、江戸期後半から今に至るまでの着物って、なんか、ミョ〜〜にそそられますな。
いやらしい意味でそそられるんではなくって〜〜、どう言いますか、まぁ、日常にあまりない衣装なんでモノ珍しい感触もあるんですけど、やはり、その固有性というか独自性の部分で、魅かれてるみたいなトコロがあります。
着付けてしまえば、西洋的な衣装とは違ってカタチはほぼ一種しかないですね、着物は。だけど、その図柄とか生地や色でもって、変化は幾重にも楽しめる。一種のキャンバスみたいな感じですね。
ハワイのアロハシャツが日本の浮世絵柄の着物を縫製し直したモノが起源というのは有名な話だけど・・ イイすね、着物。
なんか、描いてよ、着物・・ 
マタンゴ
いや・・ 描きますけど、そりゃ(苦)、でも着物って、色々な型があると思うのですが。時代によっても違ってくるし、マイナーチェンジものまで含めると膨大な数になるんじゃありませんか?
山本
ぁあ、それはそうです、むろん。
平安の頃から江戸に到るまでにゃ、相当の変遷がありますね・・ ただ、背中から羽織って前で併せて紐で結わえるっていう意味でね、着物の本質は不変ですね。
一番の変化は、紐だったモノが帯になっていく辺りですね。幅が広くもなり、豪華にもなり、見栄えがグギュンと上がってきますね。
「帯をとく」という一語に、中年の僕なんかは妙にときめくモンがあるんだけど、あれが「紐をとく」では、なんか、脱がせがいがないなぁ、という感触になる。やっぱ、帯をね、封印をとくみたいな感じとして知覚すればね、この場合、昂奮係数が上昇しますな〜。
   
(^_^;)
いや、別に脱がせろ脱げのじゃなくってね、紐から帯に変遷したコトで、着物と人体の関係性が神聖をおびるというか艶っぽくなるというか・・ 
うふ。ヘンな話で恐縮ですが・・
マタンゴ
はぁはぁ・・
(マタンゴ適当に合槌うってビールをグビリ)
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